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翔生成長記録

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誕生編

翔生は昭和六十一年十二月に誕生。

ダウン症と知ったときには、皆さんと同じ思いを自分たちもしたと思います。
悲しかったり、つからったり・・・etc。

個人差、立場によって感じ方は違うから、一概には言えないけど、
総じて涙を流すような状況でしょう。



ダウン症の疑いがあるということは、生後十日ほど経った頃に
さかじ~へ医師から説明がありました。
その後、検査をして間違いないことが分かったのでした。。

産婦人科で2週間入院後に小児科へ。
小児科での1週間はさかじ~も一緒に病室に泊り込み。
障がいの特徴は分からない。
誰に相談したらいいか分からない。
不安でたまらなかったなあ。

よく覚えていないのですが、退院する時に主治医から
「この子を立派に育てたらたいしたものですよ。頑張ってください。」
と言われたような。

それまでに他の先生から前向きな言葉を貰っていなかったので、
その先生の言葉にさかじ~はできる限り前向きに
考えようと決めたのです。

「よっしゃ、やってやろうじゃないか。」

・・・でも、根拠は何もありませんでしたけどね。

恵子母さんに翔生がダウン症と伝えたのは、生後一ヶ月頃でした。

翔生in田井の浜

親として、自分の子供にできる限りの成長をさせてやりたい
という思いは誰にでもあるだろうし、
特に障がいを持って生まれてきたということで、
より強く思っていました。

しかし、思いとは裏腹に世間体を気にして、
さかじ~は翔生の障がいのことは人には言わず、
自分自身が受容できるまでに10年もかかったのでした。

まあ、あるきっかけで、超前向きに考えられるようになったのですが、
そのいきさつはのちほど。

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療育編 その1

<赤ちゃん体操教室>

翔生が生まれた当時は、現在のようにインターネットが
普及していなかったから、療育に関する情報源は主に
保健婦さんからもらっていました。



ちょうどその頃に、ダウン症の娘さんを持つ保健婦さんが
ダウン症の子供の為の「赤ちゃん体操」を普及させていたので、
翔生も通うことにしたのです。

翔生は合併症がなかったこともあって、生後三ヶ月の頃から
毎月開かれていた「赤ちゃん体操教室」に通い始め、
保健婦さんに翔生の発達状態を見てもらいながら、
指導してもらいました。



自宅では毎日二回の赤ちゃん体操を家族で分担して行い、
軍手を使った乾布摩擦も熱心にやりました。



翔生腹這い

この赤ちゃん体操教室は、安藤忠先生監修の
「ダウン症児の育ち方・育て方」の本に沿って指導されていて、
我が家もその本を購入して参考にしたのです。

さかじ~夫婦は、この本に書かれていたことを一言一句忠実に
実行していたものだから、保健婦さんから「ここの親はやり過ぎです。」
と言われるほど熱心に療育に励んでいたようです。

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<身体障害総合リハビリテーションセンター >

しばらくは赤ちゃん体操に通っていたのですが、生後四ヶ月のときに、
最新の療育を知りたくて、「ダウン症児の育ち方・育て方」の著者
安藤忠先生がいる北九州市立総合療育センターへ行くことにしました。

診察とその後の療育について相談したけれど、徳島と北九州では
あまりにも地理的に遠いから、
香川県の「身体障害総合リハビリテーションセンター」を
紹介してもらったのです。

それから翔生が一才までの間は、月に一度の療育指導に親子三人で
通うことになりました。

そこでは粗大運動を重点的に行い、少しでも早く寝返りやお座り、
歩くことを目指して、自宅でもトレーニングを頑張ったのです。

その甲斐があって、健常児の発達標準から少しばかり
遅れながらも、寝返り、お座りなどができるようになっていきました。

その頃のさかじ~夫婦は、発達が健常児から遅れないようにと
寝返りができたら次はお座りを。次はハイハイ、その次はつかまり立ち、
そして早く歩かせようと先を急いでいたように思います。

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療育編 その2

指導されたことを徹底的に行い、どれだけの時間をかけるか

<こどもの城>

翔生が一歳になった頃に「赤ちゃん体操教室」で一緒だった方から、
新大阪にあるダウン症専門の療育施設の「こどもの城」を教えてもらいました。
地元にはダウン症専門の療育機関が無かったので、迷わず通うことにしました。

それから就学するまでの間は、親子三人でフェリー、電車を乗り継ぎ、
往復8時間かけて通うことになったのです。
最初はしんどかったけど、慣れてくれば毎月小旅行ができるって感じで、
楽しみになりました。

 

療育



そのころ一生懸命になっていたのは、療育は三歳までが
肝心だということを耳にしていたのと、少しでも早く歩いて、
行動範囲を広げることで、よりたくさんの刺激を与えることが、
翔生の成長を促すと信じていたからでした。

療育用具は自分たちでいろいろ作りました。
少しでも早く歩くようにとロープを使った歩行訓練用具もつくったし、
簡単なジグソーパズルなども自作したのです。

翔生が歩き出そうとしていた頃のことですが、
手押しの歩行器(カタカタ)が軽くて、走ってしまったり、
バランスが取り難くてこけそうになるので、
重り(鉄アレー)を乗せるような工夫をしたのです。

このあたりはさかじ~の性格なのでしょうが、できないことの原因を
考えて、いろいろと対応をしてきたように思います。



熱心に体力づくりに取り組んだこともあって、運動面ではそれなりに
発達していったのですが、言葉に関しては健常児に比べて大きく
遅れていました。

療育については、子供の城で指導された発語を促すカードによる
トレーニングなどの取り組みは特に苦労しました。
毎月与えられた課題をクリアしようと翔生とトレーニングしましたが、
一ヶ月でクリアすることは至難の業でした。

おそらく、翔生には勉強する必要性がわからない上に、
まったく興味がない事を強要されるわけですから、
やる気がしなかったのでしょう。
それでも翔生のためだと思って、毎日時間を作り、勉強に取り組んだのです。



翔生が五歳頃だったと思いますが、三歳年下のまだ字も読めない弟が、
ひらがな五十音表を指差して、翔生に勉強をさせていることがありました。

さかじ~夫婦が毎日、翔生に勉強をさせているのを見て、
見よう見まねで協力してくれたのでしょう。

次男はユーモアがあり、いつも家庭を明るくしてくれていたし、
加えて翔生へのサポートをしてくれことを見て、
兄弟がいることの大切さを実感しました。

それ以降の翔生の成長過程でも、弟たち二人の翔生へのサポートは
変わることはありませんでした。



話は戻って、こどもの城で定期的に提出していた
「発達に関するアンケート」の判定結果を見ては、思うように
進まないとは分かっていたけれど、健常児から遅れている成長を
目の当たりにすると、さすがのさかじ~夫婦もへこんだのでした。

それでも担当していただいていたS先生の熱心な指導で、就学するまでには
言葉も出るようになり、会話もできるようになりました。

↑ページのトップへ↑* 兄弟編 [#u548314a]

<兄弟がいて良かったこと>

翔生には三歳と五歳離れた二人の弟がいます。
実は下の子をつくるに当たっては、あるきっかけがあったのです。

それは翔生が一歳くらいの頃だったでしょうか。
たしか神戸のP病院の院長先生だったと記憶しているのですが、
一人目に障がいをもった子供ができた場合は、下の子を設けたほうが
良いと、あるテレビ番組で話しているのを見たからです。

どうしても障がいを持った子供だけの子育てをしていると、
つらい思いや悩むことが多くなりがち。
下の子がいることで、健常児の成長による喜びや楽しみが
経験できると院長先生が話されていました。



翔生成長記3で話した、2歳の字の読めない弟が翔生に50音表を
指差して勉強させてたことなどは、すごくほほえましい出来事でした。

さらに三男が生まれて弟が二人になってからは、家庭はそれまで以上に
にぎやかとなり、翔生の成長に対する悩みは弟たちの存在で
ずいぶん緩和されたと思います。

近所に同年代の子供がいないことや、自分から積極的に動こうとしなかった
翔生にとっては、いつも遊び相手になってくれた弟たちの存在は非常に
大きかったのです。

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<余談>

次男は翔生と三歳違うので、小学校へは一緒に通ったけど、
中学校では一緒になりませんでした。
今にして思えば、中学生という思春期に差し掛かる多感な時期に
同じ学校に通わなかったことは、次男の精神的なストレスに
ならなかったのではないかと思っています。

三男は翔生と五歳違い。
小学校のときは翔生6年、次男3年、三男1年で全員が
同じ小学校へ通っていました。
弟たちは未だちっちゃかったので、翔生が支援学級へ通っていることは
気にならなかったようです。

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療育センター&幼稚園編

<めだか学園>

翔生は大阪の療育施設に通いながら、自宅から少し離れた小松島療育センター、
通称「めだか学園」という療育施設にも通っていました。

めだか学園では母子分離といって、親から離れて施設で
昼間の時間を生活することを目標にしていたのですが、
2年経っても翔生は一人で通うことができませんでした。

園に通っている子供たちのほとんどは、通園バスを利用していたのですが、
翔生の場合はおばあちゃんが週に三日を送迎して付き添いをしていました。
母子分離して欲しかったけど、元気に通園していることでさかじ~夫婦は
満足していたと思います。

療育センターを卒園後(三歳三ヶ月から)は、私立のカトリック系の幼稚園に
通うことにした。

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<聖母幼稚園>

その幼稚園に通うきっかけのひとつには、「モンテッソーリ」の教育法を
採用していたこと、もうひとつは近所に翔生とは違う障がいを持っていた
女の子がその幼稚園に通っていたことがあり、そのお母さんからの評判が
すごく良かったからでした。

その上に恵子母さんの高校時代のクラスメイトがその幼稚園で先生をしていたので、
幼稚園の様子を聞かせてもらった上で、翔生に一番適しているだろうと判断したからです。



自宅から幼稚園までは車で十分ほどだったので、おじいちゃんかおばあちゃんに
送迎してもらいました。
おじいちゃん、おばあちゃんには生まれたときからお世話になりっぱなし。

翔生は他の園児たちと比べると、体は小さくて体力もなかったことから、
お仕事と呼ばれる作業は同じようにできずにいたのですが、そんな翔生を
見かねてか、年長さんや同い年の世話好きの女の子が翔生の面倒を
見てくれて、すごく助かりました。

翔生は他の子供たちが関わってくれることが、楽しかったのでしょう。
療育センターへの通園は抵抗があったようですが、幼稚園になってからは
機嫌よく通園できるようになりました。



自分から動くことが本当に少なかった翔生だけど、それでも時々隠れていたずらを
することがありました。幼稚園の教材を広げさがしたまま片付けなかったことを、
後で先生に問い詰められると、「弟がやった」とバレバレの言い訳をすることもあったのです。
弟は未だ赤ちゃんだったので、家にいたのですけどね。



聖母幼稚園の頃の一番の想い出は卒園式でのこと。
卒園式までに何回も卒園証書の授与式の練習をしてたのですが、
翔生は一度もみんなと一緒に練習をせず、ずっと見ているだけでした。

でも卒園式当日の卒園証書授与式では、名前を呼ばれると「ハイ。」と返事をして、
壇上に上がり、園長先生から卒園証書を受け取ることができたのです。

このときばかりは、本当にびっくりしました。
さかじ~夫婦はこの状況を期待していなかったこともあり、涙が出るほど
うれしかったのでした。
※写真は卒園式の卒園証書授与式のもので、さかじ~の宝物。

普段は一生懸命に観察するだけで自分は何もせず、本番の時だけにやるというパターンが
翔生の持ち味となっていったのです。

聖母幼稚園には3年通いました。



就学時期も近づいてきて、さかじ~夫婦は進路についてずいぶん悩みました。
翔生はダウン症という障害を持っているので、養護学校へ行くか、
地元の小学校へ行くかの選択肢があったのですが、その時は地元に
養護学校がまだ出来ていなかったこと、他の地域の養護学校へ通う場合は、
寮生活をしなければならないこともあり、地元小学校へ行くことにしました。

既に地元の小学校には支援学級が設置されていたので、大きな障害もなく、
地元小学校へ就学することができました。



翔生が通った小学校は一学年三十人の生徒数だったので、クラス替えがなく、
翔生は六年間同じ親学級の友達と過ごしました。

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小学校編

<徒歩通学>

地元の小学校へ通うことになって問題になったのが、歩いての通学でした。
自宅から小学校まで片道2.5kmほどあり、小学校一年生にしては体も小さく、
体力もなかったので、おじいちゃんに送迎してもらいました。



翔生が自力で通学できないのは、翔生の体力がないことも原因の一つだったのですが、
恵子母さんは翔生が登校する時間には、出勤していて家に居ないというのも
大きな原因と考えたようです。(恵子母さん談)



そこで、恵子母さんは職場の上司に息子の障がいのことを相談して、
自宅から近い職場へ転勤させてもらいました。

そして、小学二年生の時から翔生は恵子母さんと歩いて登校をすることにしたのです。
2.5キロの道順はとうに覚えているはずなのですが、なかなか翔生は
一人で歩いてくれませんでした。

慎重で内気な性格の翔生は、恵子母さんが一緒に歩くと前に進んだのですが、
ちょっと離れると進む足がピタリと止まってしまうのです。



春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も過ぎ、半年以上経った冬のある雨の日に、
ようやく一人で学校の近くから歩けるようになりました。
それからは徐々に一人で歩ける距離が伸び、4年になって弟が小学校へ入学した時から、
集団登校できるようになりました。
弟が一緒に登校することで、兄としての自覚が芽生えたのかもしれません。

下校に関しては弟と終業時間が違っていたので、一緒に下校することができなかったので、
毎日、担任の先生とおじいちゃん、おばあちゃんが連携をとってくれて、
下校時に迎えに行ってもらいました。
自分一人で歩いて帰って来られるようになったのは、高学年になってからでした。

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<障がいの受容>

この頃には周囲の人たちは、翔生が健常の子供たちと違うことが
はっきりと分かっていたと思います。
翔生が生まれて10年も経っていたのに、さかじ~は翔生の障がいを
受け入れきれていなかったのですが、あることをきっかけにして
考え方が180度変わったのです。(10年はかかりすぎですね。)

そのきっかけとは、翔生が5年生のときの担任(濱〇先生)から依頼されて、
翔生がダウン症であることを子供たちに話したことでした。

小学校も中・高学年になってくると、翔生は授業について行けないので
支援学級ですごす時間が多くなったことから、一部の子供から翔生がみんなと
違うと思いはじめていたそうです。

その授業では翔生の持っているダウン症のことを説明して、赤ちゃんのときから
療育に頑張ったこと、体力をつけるためにマラソン大会に出場したりして
頑張っていることを話しました。

クラスのみんなにどう伝わったかはわからないですが、何よりもさかじ~自身が
翔生の障がいを受け入れられたことが大きな収穫でした。

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<選択肢>

地元の学校へ入学するか、養護学校へ入学するかについて、親御さんの間で
議論されることがありますが、こればかりはどちらが絶対にいいというのは
ないのではないでしょうか。

どちらにもメリット・デメリットがあるでしょうから、子供さんの成長度合いや
家庭、学校の環境などを十分考えて決めるべきでしょう。

たとえば地元の学校へ通った場合は、健常の子供たちとかかわることでの刺激が
成長を促すこともあるし、逆に学年が進むにつれて授業についていけないことが
大きなストレスになるかもしれません。

また、学校の行事では健常の子供たちと同じようにできないことが出てきますから、
親御さんへの大きなストレスになるかもしれません。(さかじ~はすごく感じました。)

ぜひ、親の思いだけで進路を決めてしまわないようにしてあげてください。

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キャンプ編

<キャンプ行脚>

翔生にはいろいろな刺激が必要と考えて、キャンプに良く出かけました。
初めてのキャンプは翔生が小学校一年生のとき。
キャンプ用品を揃えて、兵庫県の諸寄へ行ったのを皮切りに、地元の
キャンプ場へよく出かけました。

翔生が小学校高学年から中学校にかけては、キャンピングカーで
スキーキャンプにも出かけました。
キャンピングカーを購入したのには、いろいろと思うところがあり、恵子母さんの
知らぬ間に、キャンピングカーは我が家の一員になっていました。

それ以降、キャンピングカーは大活躍して、兵庫県のハチ高原、鳥取県の大仙、
長野県の御岳、志賀高原に出かけて行ったのです。
おかげで、翔生はスキーも大好きーで、ほとんどの斜面を滑ることが
できるようになりました。

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<屋久島キャンプ>

一番の思い出は屋久島へ縄文杉を見に行ったときのこと。
その頃のさかじ~一家は日本一、世界一を求めてあっちこっちへ
出かけました。
皆さん、屋久島って知ってる?
屋久島は世界遺産に登録されていて、自然がたくさん残っている
美しい島です。



その年の目標は、日本一の樹齢を誇る「縄文杉」に会うこと。
縄文杉は樹齢七千二百年ともいわれているのです。
(科学的に調査した結果は、樹齢二千百六十年とのこと。)

このときは登山前からハプニングがあって、思いで深いキャンプに
なりました。



登山前夜に、登山口である「荒川登山口」にキャンピングカーで
泊り込んだのですが、夜の九時過ぎ、突然「すみません。」という声が
窓から入ってきました。

何かと思い、窓の外を見ると、登山者風の男性が立っていて、
事情を聞いたところ、ルートを見失い、出発地点へ帰れなくなった
とのことでした。

実はこの人、大学生の時にワンダーフォーゲル部に入っていたそうなのですが、
そのことを聞いたとたん、失礼だったのですが笑いがこみ上げてきました。
だって、ワンダーフォーゲル部って、地図を見ながらいろんなところを
探検するクラブですからね。
まあ、そんな感じの風貌だったような気がします。
とにかく、無事その方を屋久島に一緒に来ていた友人に送り届けて、
一安心でした。



翌日の午前六時四十分に縄文杉への登山が開始!!
道のりは、 片道約十一キロ。
そのうちトロッコ道が八キロ。残りが険しい山道です。

通常往復十時間とガイドブックには書かれていましたが、翔生は
凸凹道を歩くのが超苦手。
もう少し時間がかかると考えていました。



出発の時から雨模様の天気となり、カッパを着て出かけることに
なりました。
出発していきなり手すりも何も無いトロッコ橋を渡るのですが、
高さにして、十メートルくらいはあったかな。
雨も降っていて、スリル満点!!

中でも小杉谷集落跡にある橋は、高さ二十メートル、長さは三十メートル以上あって、
足を震わせながら渡りました。

同じような景色の中を延々と三時間半歩き、やっと大株歩道入り口に
到着。
きつい山道を歩いていると、屋久ザル、屋久シカに遭遇しました。
屋久シカはあまり人を警戒しないようで、三~四メートルくらいの
距離でも、のんびり食事をしているのです。



愛子杉、仁王杉、翁(おきな)杉、ウィルソン株、大王杉、
夫婦杉を横目に見ながら、出発から五時間四十五分。
ついに縄文杉に到着です。

縄文杉は、杉のイメージからは程遠く、ずんぐりした幹は
でこぼこしていて、お世辞にも美しいとは言えません。

そのおかげで伐採されず、今日まで生き延びてきたそうです。
(江戸時代には利用しにくい巨木として伐採されなかった。)



せっかくの縄文杉とのご対面だったのですが、あいにくの雨と予想外に
時間がかかったこともあって、昼食もそこそこに、縄文杉を後にしました。



帰り道では子供三人は、泣きべそをかきながら、縄文杉を出発して
六時間二十分後に無事帰ってきました。

どうして泣きべそをかいたかというと、帰りの道のりでは景色に新鮮味がなくなり、
さらに12時間にも及ぶ歩くだけの行為が辛くなったのでしょう。

子供三人はそれぞれに、辛く感じることがあったようで、長男の翔生は
濡れた足にまめができたにもかかわらずさかじ~に手を引っ張られながら
歩き続けないといけない辛さ、次男は早く帰りたいのに、翔生のペースに
合わせなくてはならないことが辛かったようです。

三男も同じように、自分のペースで歩いては長男を待たなければ
いけないのが辛かったのでしょう。

さかじ~にしても、長男に頑張れと叱咤激励するのですが、そんな言葉には関係なく、
マイペースで歩くので、どうしても激しい口調で叱ってしまいました。
気を付けているつもりなのですが、なかなか抑えることができませんでした。



さかじ~一家の夏休みは、縄文杉への登山といい、往復十時間かけた
富士登頂といい、旅行というよりも修行と言った方が良いかもしれませんね。

今となっては、そんな過酷な経験から、お互いを思いやったり、助け合う気持ちが育まれ、
家族の強い絆が生まれたのだと思っています。

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中学校編

翔生が中学校へ上がるときには、地元に養護学校はできていたのですが、
地元にも障害を持った人がいることを知って欲しい事もあり、地元の学校に行くことにしました。

もし地元の中学校での生活についていけない場合は、養護学校への編入が可能だったから、
行けるところまで頑張らせようと考えたのです。

ただし、この判断が正しかったかどうかは、今でも自信はありません。

<自転車練習>

地元の中学校に通うことを決めたので、距離的には小学校と同じ2.5kmでも、
自転車通学が認められていたので、自転車通学することにしました。

でも、翔生は小学校の間に自転車に乗ることを本格的に練習していなかったので、
そのときはまだ自転車に乗れなかったのです。



それまでは補助輪つきの子供用の自転車で、自宅周辺をウロウロする程度だったので、
まずは子供用の自転車から補助輪を外すことに取り組みました。

なにせ翔生は慎重な性格なので、スピードを出さないから、なかなか補助輪が地面から
離れません。

そこで翔生に自転車はスピードを出すことでまっすぐ走ることを説明したのと、
危ないときはブレーキをかける事を理解してもらいました。

もうひとつ苦手だったのは、自転車を発進させてからサドルに座ること。片側のペダルを上に持ってきて、そのペダルに足を乗せて、一気に体重を乗せる。
ペダルの上で片足立ちしてから、自転車が発進すると同時にお尻をサドルに乗せる。
この動作をマスターするに時間がかかりました。



自転車を走らせることに関しては、スピードを出す練習を続けて、
補助輪を少しずつ浮かせながら、ある程度の距離を走れるようになった頃を見計らって、
補助輪を外すことにしたのです。

あとはさかじ~との体力勝負でした。
翔生に自転車を発進させ、主人が後ろを伴走しながら、ふらついたときには自転車を支える。
その繰り返しを何回やったでしょうか。

さかじ~はすでにマラソンやトライアスロンを始めていたこともあり、
どうにか耐えることができたのでした。



通学用の自転車が納品されたのは、年も明けた一月の終わり頃でした。
その頃には子供用の自転車に乗れるようになっていたので、新しい自転車に乗ることは
そう時間はかかりませんでした。

自転車通学が始まるまでの2ヶ月間は、ひらすら自転車の練習を続けたのです。



そうこうしているうちに翔生は中学校へ入学することになり、最初は翔生一人で
通学することが不安だったので、たまたまさかじ~の勤める会社が翔生の通う
中学校のすぐそばだったこともあって、さかじ~が毎朝オートバイで伴走することにしました。

通学途中には2箇所の幹線道路を横断するので、注意して渡るように指導しました。
2週間ほど様子を見て、問題なさそうだったので、その後は翔生一人で
通学させることにしたのです。



中学へ通っている間には、雨の日も風の日もありましたが、大きな事故もなく、
通い続けることができました。

まあ、たまにはカーブを曲がりきれず、田植え時期に田んぼに突っ込んで、
泥まみれになったこともありましたね。

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<学校生活>

学校生活では、授業についていくことは難しくて、支援学級で過ごすことが多かったようです。

学活や給食、体育や音楽は親学級で過ごしましたが、それ以外は支援学級で翔生の
レベルに合った授業をしてもらっていました。

実は支援学級で英語の授業を三年間受けたのです。
そのお陰なのか、翔生は外人に向かって、恥かしがらずに英語であいさつすることが
できるのです。

支援学級には、教室の中に流し台など調理ができる設備が整っていて、かなりの時間を
将来の自立に役立てるための調理などに費やしていました。

翔生の通っていた中学校の支援学級は翔生だけか、もしくは二人の生徒だけだったので、
翔生は月に一度の同じ市内の中学校の支援学級の交流会が楽しみでした。

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<手話クラブ>

授業以外では、運動クラブで活動することは難しかったので、支援学級の担任が
顧問をしていた手話クラブに入っていました。

この手話クラブは女子十人、男子は翔生一人という大変華やかなクラブだったので、
翔生は楽しいクラブ活動を送れたようです。

翔生は興味があることは一生懸命に取り組むので、手話クラブが入学式や卒業式で
壇上に上がって手話をする時や、文化祭で歌を手話で披露する時などは、
家で自主的に練習をしていました。

地道な努力によって、自分に自信が持てるようになり、人前に出ても堂々とした態度で
演技をすることができるようになったようです。

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<ケナフ栽培>

校外学習として、和紙を作るためにケナフの栽培や、サツマイモの栽培にも取り組んでいました。
たまたま我が家の横に親戚が使っていなかった田んぼがあったので、校外学習に
使わせてもらいました。



自宅横だから、おじいちゃんも翔生と一緒に校外学習に参加できることを喜んで、
協力してくれました。

ケナフやサツマイモの苗を植えつけるときには、畝の作り方などいろいろなことを
先生や生徒にアドバイスしていたようです。
ついでに苗への水やりなどもおじいちゃんが進んでやってくれました。

サツマイモはみんなで楽しく収穫できたのですが、ケナフを使った和紙作りについては、
中途半端に終わってしまいました。

和紙の原料にしようとして植えたケナフは、背丈が2mを超えようとしても、収穫することもなく、あまりにも成長しすぎたケナフは、
和紙作りには向かないので、おじいちゃんやさかじ~が焼却することになってしまったのです。



当時、ケナフを使用した和紙作りがはやっていたので、ケナフ栽培に取り組んだのですが、
終わってみればケナフの灰しか残らなくて、さかじ~一家がずいぶんお世話していたこともあり、
少しだけ悲しい思い出となっています。

もっと計画的に取り組んで、和紙作りを成功させて欲しかったけど、
これが地元中学校の支援学級の限界かと思うと、少しさびしく思ったものです。



ケナフのことが直接ではないけど、小学校、中学校の支援学級でお世話になった先生方に、
それ以降で直接的にサポートしてもらうことはなかたので、結局は自分たちで
道を切り開くことしかできないと思うようになっていきました。

地元の小学校・中学校へ通った九年間の間に、翔生が直接いじめを受けたことは
なかったと思っています。

これについては、地元の学校が熱心に人権教育に取り組んでいたことが
背景にあったからでしょう。

総じて、翔生は楽しい義務教育の期間を過ごし、阿南養護学校へ進学することになりました。

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養護学校高等部

<阿南養護学校進学>

養護学校では中学校の時より活き活きして生活していました。
中学校まではクラスメイトと同じ学校生活を送ることができないことに
ストレスがあったのかもしれません。
養護学校の文化祭、体育祭などでは一生懸命な姿が目につきました。



養護学校では、行事を行うにしても余裕を持ったプログラムになっているから、
時間に終われることなく、生徒のみんながパフォーマンスを発揮できます。
また、家族にとっても養護学校での行事への参加は、すごく楽しいものになりました。



当たり前と言えば当たり前なのですが、養護学校へ通っている生徒は何かしらの
障がいを持っています。

家族にとっては地元の小学校、中学校の行事では、どうしても周囲を気にしてしまうので、
何かしらのストレスになっていたのですが、養護学校の行事では周りに気を使わなくて済むので、
気楽に参加することができるようになったのです。

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<就労に向けて>

養護学校高等部を一年、二年と進級していくにつれて、卒業後のことが気になってきたのです。
健常の人は高校を卒業すれば、大学進学か一般就労をすることになるけど、養護学校を
卒業した人たちは簡単には就職できません。

健常の人でも高校を卒業して就職するのは大変だけど、障害を持った人が就職して、
お金を稼ぐのは並大抵ではないのです。
そういう現実もあって、翔生が仕事を見つけるのは難しかったのでした。



現場実習で家具屋さんなどを体験させてもらったのですが、その時には一般就労できるような力は
無かったようでした。

翔生が二年生の時に、恵子母さんが進路についての面談を受けた時に、
養護学校の進路の先生から

「翔生くんは仕事をやる気がありません。こんな調子では一般就労は出来ません。」と

きっぱり言われたのです。



それを聞いた恵子母さんは奮い立って、知的障害者の就労の場を作ってみせると決意したのでした。

そのころから恵子母さんは仕事の合間を縫って、パン作りの練習を始めました。

仕事の休みの日には、パン作りの本を読んで一生懸命焼くのですが、
なかなかうまく焼くことができなくて、ひどい時には黒焦げのパンが焼きあがるのでした。

それを見た家族は
「こんなん売りもんにならんじぇ~。」と言いながら食べてました。

でも、そんな失敗は気にもせず、休みのたびに恵子母さんはパンを焼き続けていたのです。

幸いなことに、さかじ~一家は味音痴ばかりなので、少々まずくても全部平らげてしまうのでした。

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トライアスロン挑戦

<阿南擁護学校2年生時にトライアスロンに挑戦>

翔生が二年生の時には、養護学校を卒業してからの進路は未だ決めていませんでした。
どういう進路があり、翔生の適正も分かりませんでしたから、どうしていいのか
分からなかったのが正直なところです。

ただ、翔生に生活の中で目標を持たせることは必要と思ったので、さかじ~が
やっているトライアスロンに挑戦することを思いつきました。

そして漠然と考え始めていた事業についても、宣伝効果が必要と考えていたので、
翔生には看板息子として活躍してもらおうと考えていました。

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<ホイット親子>

さかじ~が親子でトライアスロンに挑戦しようと思ったきっかけのひとつに、
ホイット親子の存在があります。

息子さんは脳性マヒで、泳ぐことも自転車に乗ることもランニングすることもできません。
お父さんが息子さんをゴムボートに乗せて、そのゴムボートを引っ張って泳ぎ、
自転車ではハンドル部にイスを付けた特別製の自転車に乗せて走ります。
そしてランニングでは、車椅子に息子さんを乗せて押して走るという離れ業を
やってのけるのです。



息子さんは自分の体を使ってレースすることはできないのですが、ゴール後には
父親と自信に満ちた表情をしています。

自分が体を動かさないといっても、十二時間をはるかに越える時間を炎天下に
さらされるアイアンマンレースにおいては、一人でレースをしている選手より過酷だと思います。



チームホイットの記事を読んだ時から、いつか翔生とさかじ~でトライアスロンに
挑戦したいと思っていたのでした。

翔生は幸いなことに身体的な障害がほとんどなくて、水を怖がることもないし、
自転車、ランニングもできます。

「そうだ、親子でトライアスロンを完走しよう。ホイット親子の自信に満ちた表情が
自分たち親子にもできるかもしれない。」そう思ったのです。

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<TV局へ売り込み>

2002年も押し迫った十二月の終わり頃に、翔生のトライアスロン挑戦が
四国放送TVの番組で取り上げてもらえるかどうかを問い合わせをしたのです。

しかし、なかなか返事がもらえなかったことと、その頃の翔生はクロールで泳ぐことが
出来なかったこともあり、半分あきらめかけていました。

ところが、2003年の年明けからずいぶん経った一月の終わりに、四国放送TVから
取材の依頼が来たのです。

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<トレーニング>

それから翔生の特訓が始まりました。
出場を決めてからはやることはただ一つ。
水泳で連続して泳げるようになることです。

翔生は息継ぎ無しなら25mを泳ぐことはできたのですが、レースでは息継ぎ無しで
泳ぐわけにはいかないですから、息の仕方、水のかき方、キックの仕方を一生懸命に練習しました。



そうこうしているうちに5月の連休も終わったのですが、相変わらず翔生は
25mを泳ぐことができません。

大会1週間前に取材があった時にも、なかなかうまく泳ぐことができず、
やっぱりダメかなと思いながら、さかじ~と息継ぎの仕方を復習して、
その日最後の25mを泳ぎだしました。

スタートして5m、10m、15、20m、あと少し!! 
そして、取材のスタッフが見守る中、遂に25mを泳ぐことができたのです。

その場に居合わせたみんなが感動して、同時にこれでもしかしたら
トライアスロンのレースを完走できるかもしれないと、少しだけ希望が見えてきたのでした。

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<サイパン・タガキッズ>

翔生のトライアスロン初挑戦であるサイパン・タガキッズの大会には四国放送テレビが
同行しました。

レースでの水泳の距離は200mだし、さんご礁なので浅くて足が立つだろうと
甘く考えていたのですが、レースの時には潮が満ちていて、翔生は足が立たなかったのです。
状況が悪かったけれど、いまさら後には引けないので、とにかくスタートしました。



水泳のスタートのと時には、冷静さを失っていた翔生は実力以上のペースで泳ぎ出してしまい、
息が苦しくてパニックになり、途中で何度も止まってしまいました。
さかじ~と友人の献身的なサポートで、水泳はどうにかクリアすることができました。

水泳が終わってしまえば、あとはどうにかなると思ってたのですが、
バイクのゴール近くの急な下り坂で転倒して、レースを終えることになりました。



翔生が使用していた自転車は弟が使っていたものだったので、翔生が乗るにしては
サイズが小さくて、下り坂でのバランスが悪く、ハンドルが振られたことで
転倒してしまいました。

その時のスピードは時速40km以上出ていました。
あまりにも激しい転倒を目の当たりにしたさかじ~は、翔生が骨折していると
疑わなかったのですが、体が柔らかいことが幸いして、擦過傷だけですんだのです。



本当なら、翔生が完走して「良かった良かった」で取材は一回で終了する予定だったのですが、
翔生が転倒リタイヤしたことで、それ以降も取材が続くことになったのです。



日本に帰ってからしばらくして、サイパンタガキッズへの挑戦が四国放送TVの
“おはようとくしま”で放送されて、地元では大きな反響をよびました。

その年の夏には、一時間の特別番組が放送されたのです。
この番組は中国・四国地区の民間放送番組のコンテスト、ドキュメンタリーの部で
優秀賞を受賞しました。

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<ひわさうみがめトライアスロン>

翌年にはサイパン・タガキッズのリベンジを果たし、その二ヶ月後には、地元徳島の
「2004年ひわさうみがめトライアスロン」に挑戦したのです。
一般の部に出場するので、距離も子供のクラスと比べ物になりません。

ダウン症である翔生のことを大会事務局に説明して、親子で出場することを承諾してもらいました。



今回のレースも四国放送TVの取材も決まっていたので、二ヶ月かけて
トレーニングを積みました。
水泳は週に2~3回泳ぎ、週末には自転車を40km走り、ランニングも頑張ったのです。

時々、恵子母さんも一緒に自転車のトレーニングに付き合ってくれました。
その当時は翔生の実力もまだまだだったので、恵子母さんも何とかついてくる事ができて
いました。

順調にトレーニングを積んでいたのですが、大会前々日の金曜日に翔生は下校途中に
自転車でこけて、左肘に怪我をしてしまうアクシデントを起こしてしまいました。
大きな擦過傷と腫れが大きかったので、四国放送のディレクターに連絡を取り、
取材も出場もキャンセルすることにしたのです。



大会出場をあきらめてみたものの、二ヶ月間一生懸命練習してきた翔生のことを考えると、
涙が止まらなくなり、完走できなくてもいいから、水泳だけでも出場しようと決めました。

そして翌日の土曜日の早朝六時に、四国放送TVのディレクターに出場することを伝えました。

ディレクターは突然の連絡に驚きながらも、取材スタッフの再編成していただき、
大会当日はカメラ3台体制という、大掛かりな体制で取材が行われたのでした。

翔生はキッズ大会を完走してから、スイムの距離に対する壁が無くなって、
スピードはともかく、いくらでも泳げるようになりました。

ウェットスーツを着て出場したこともあり、水泳の1.5kmは問題なく
泳ぎきることができたのです。



レース前にはスイムだけの出場と言っていたのですが、スタートしてみれば、
翔生もさかじ~もアスリートモード全開となり、レースをゴールすることしか
頭になかったのです。



次に待ち構えているのは、一番の難関、自転車です。
コースは平坦地が無いと言っていいくらい起伏に富んでいいて、
高低差100mほどあるコースを制限時間内に往復しなければなりません。

必ず完走するぞとばかりに、翔生は必死になってペダルを漕ぎ続けました。
自転車で40kmのコースを走りきったときには、マラソン10kmを走りきるために
必要な残り時間はギリギリでした。

途中で腹痛になりながらも、翔生は必死に走りきり、大声援の中を制限時間の45秒前に
ゴールするという、離れ業をやってのけたのです。

取材をしていたTV局のスタッフもさかじ~親子も、無事完走できたことに
胸をなでおろしたのでした。

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<世界初の完走>

おそらく、今回のひわさうみがめトライアスロンを翔生が完走したことは、
ダウン症者が正式な距離(オリンピックディスタンス)のトライアスロンを完走した
世界で初めての出来事だったと思います。

この完走をきっかけにして、翔生のトライアスロンへ挑戦することのモチベーションは
一気に高まっていったのでした。

さらに、この大会が翔生やさかじ~一家にとって、大きな転機となったのです。

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パン屋開業

<転機>

「ひわさうみがめトライアスロン」を完走したことで、
我が家に大きな転機が訪れようとしていました。

大会の数日後に「ひわさうみがめトライアスロン」に挑戦した様子が
四国放送TV「おはようとくしま」で放送されたのです。



その放送をさかじ~が勤めている日亜化学工業㈱の社長夫婦が見て下さり、
さかじ~親子をサポートしたいという話が持ち上がったのです。

恵子母さんはすでにパン作りの練習を始めていたことや、翔生の養護学校を
卒業してからのこと考え始めていたこともあり、さかじ~夫婦は
「会社の食堂でパン販売をさせて欲しい。」と要望を出したのでした。

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<開業準備>

目標は一年後として、恵子母さんは本気でパン作りの練習を始めることにしたのですが、
仕事をしていてはパン職人には成れそうも無いと考えて、半年後に退職することを
決意したのでした。

2005年の春に恵子母さんは仕事を退職し、翔生は阿南養護学校を卒業して、
隣町に開所した授産施設に通所することになりました。



恵子母さんは退職してからパン職人になるための修行をさせてもらえるパン屋を
探したのですが、そう簡単には教えてくれる余裕のあるパン屋は見つかりませんでした。

それはそうでしょうね。
さかじ~が住む地域は人口が少ないから、もし弟子がパン屋を開業などしたものなら、
即自分のライバル店になるわけですからね。



仕方なく、しばらくは自宅で練習をすることにしたのですが、翔生の活躍と
人のつながりの中で、快くパン屋の仕事を教えてくれるパン屋のご主人と出会うことができ、
本格的にパン作りの修行に入ることができたのです。

その頃、翔生は自宅から自転車で授産施設に通っていて、お弁当を作る仕事をしていました。
慣れない仕事に苦労したようですが、少しずつ慣れてきて、パン屋で働くことの
下準備は着々と進んでいきました。



2005年の十月頃、会社から朗報がはいりました。
会社が知的障がい者を雇用していく方針を打ち出したのです。

すでに提案していたパン屋の件がうまくマッチして、
会社に翔生を雇用してもらえるような話となり、会社から出向して
その後に開業する「こんがり卓急便」で働く話が持ち上がったのでした。

ただし、会社が翔生を雇用する代わりに、恵子母さんが障がい者の面倒を
見ることが条件でした。

元々、パン屋を始めるに当たっては、翔生の面倒を見ることは考えていたので、
この条件に関しては問題とは考えませんでした。



出向元の会社の関連会社でもない事業所に、知的障害者を出向させること。
賃金は出向元が支払い、労務管理は出向先の事業所が行う。
この雇用形態は国内でも例がなく、この雇用形態で出向元の会社で知的障がい者の雇用数にカウントできるかどうかは地元の職業安定所から、労働局、
そして厚生労働省まで問い合わせることになったのです。

その結果、会社の障害者雇用者数としてカウントすることは問題ないという回答があり、パン屋の開業に向けて準備を進めることになったのでした。



パン屋をやると言っても、翔生と恵子母さんの二人ではやっていけません。
そこで翔生と養護学校で仲良しだったクラスメイトのAさん、さらにパートで2名のスタッフを雇うことになりました。

さて、ここまで来るともう後には引き下がれません。
パン工房の建築、パンを作る設備の選定や購入を考えるなど、考えることが
急に多くなってきました。
計画を立てて、一つずつつぶしていくしかありません。

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<こんがり卓急便開店>

そうこうしているうちに年も明けて、2006年1月17日の開店日を迎えることになりました。

当日は早朝から四国放送TVや新聞社の取材があり、数日後には四国放送TVの
朝の番組「おはようとくしま」で開店の様子が放送されたのです。
新聞にも大きく取り上げていただきました。

生き生きとパン販売をしている翔生がTVに映し出されてたのを見たさかじ~夫婦は、
これまでの苦労が報われたと思ったと同時に、これからが本当の真価を問われることになると
気を引き締めたのでした。

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チームサカノの現在

<こんがり卓急便の現在>

 2011年1月現在、パン屋を開業してから5年が過ぎ、メンバーは入れ替わりましたが、
ハンディを持ったスタッフは2人から3人になりました。

売り上げは日によってマチマチだですが、何よりも翔生や他のハンディを持っている人たちが楽しく働いていられることが何よりもうれしく思います。

これからも欲張らず、こつこつと実績を積みながら、末永く事業を継続していきたいと
思っています。

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<挑戦は続く>

トライアスロンへの挑戦は、相変わらず続けています。
翔生が大きく成長した時には、必ずトライアスロンの完走がありました。その節目の大会として、サイパン・タガキッズ大会、ひわさうみがめトライアスロン、
トライアスロンIN徳之島の三大会があるのですが、その時点では翔生の実力からして
完走が困難と思われた大会ばかりなのです。

人は困難と思われる壁を乗り越えた時に、大きく成長していくのでしょう。
それは知的障がいを持っていても同じことであり、更なる成長を目指して、2009年にはロングタイプの宮古島大会に初挑戦したのです。

宮古島大会はスイム3km、バイク155km、マラソン42kmと過去に出場した大会と
比べ物にならないくらい過酷なレースでした。
初出場の2009年はバイクゴールまではたどり着いたのですが、マラソンを
走るだけの体力が残っていなくて、リタイヤしてしまいました。

宮古島は非常に過酷なレースですが、翔生の可能性を信じて、何年かかってでも
親子で完走をしたいと思っています。

宮古島大会を完走することで、これまで以上に成長してくれるのではないかと、さかじ~は今から期待に胸が膨らんでいるのです。

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<成長はとどまることはない>

翔生はダウン症という障害を持って生まれてきました。
健常の人より劣るところがたくさんあるけど、翔生にしかできないこともあるのです。

翔生がトライアスロンで頑張っている姿は、たくさんの人の感動を呼んだり、
希望を持っていただくこともあります。
この世に生まれてきたと言うことは、何か意味があるのです。



翔生と同じ障がいの子どもさんを持っている親御さんにお願いしたいのは、
他人と比較するのではなく、子どもさんの良いところを見つけて、子どもさんの持っている
可能性を伸ばしてあげて欲しいということです。

翔生の場合は、たまたま挑戦したトライアスロンがきっかけとなり、完走を重ねていくうちに
自分の存在意義というか、存在価値を意識できるようになったと思うのです。

自分ががんばることで、周囲の人が喜んでくれたり、ほめてくれたりしてくれる。
そういう周りの人の気持をいただくことで、モチベーション(やる気)が維持できて、
トレーニングすることで心身ともに成長をしているのだと思います。

ハンディのあるなしに関わらず、本人の活躍できる環境があれば、向上心が生まれ、
成長はとどまることはないとさかじ~は考えているのです。



話が横道にそれますが、障がい者であっても最終的な目標は自立することだと思います。
その自立に必要なのが就労だと思うのですが、それには柔軟性が必要です。

かつての翔生は一般的に言われるように、頑固な部分がありました。
しかし、トライアスロンや空手に取り組むことで、耐えることを覚え、
責任感や柔軟性が出てきたように思います。



趣味でも何でもいいので、そのことを通じて心身の健康を維持していくことが
障がいをもたれている人には特に重要だと思います。

翔生の場合は、趣味と仕事を関連付けて、責任感や柔軟性を身につけてもらおうとしてきました。

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<座右の銘>

「成功の反対は失敗ではなくて、何もしないこと」

夢を描いても、挑戦して失敗することを怖がり、何もしなければ夢を実現できることはできない。

さかじ~親子の場合は、ダウン症者とその親がトライアスロンを完走した事例はないから、
自分たちが世界で一番最初に完走しよう。
そして新聞やTVに取り上げてもらって有名になろう。

パン屋を開業して、障害を持った人たちが楽しく仕事できる場所を作ろうと
夢を描いて実行してきました。

目標を達成してきたいう成功体験が、翔生をどんどん成長させてきたのだと思っています。



皆さんもどんなに小さくてもいいから、親子で夢を描き、それを実現するための
目標を立ててみてください。

小さな目標を実現して、成功体験することによって子供さんは自信を持ち、
大きく成長してくれるはずです。

翔生だけではなく、ダウン症の方で有名な人たちは、みんな同じように成功体験を
積んできていると思います。

<将来の夢>

近い将来 →・宮古島大会完走
ちょっと先 →・世界最高峰のトライアスロン大会である
       ハワイアイアンマンを親子で完走
      ・アメリカ大陸を自転車で横断(6,000km)

夢は固定されたものではなくて、その時々の状況で変化していくと思います。
チームサカノも無くしていく夢もあるだろうし、今までとまったく違う夢に
向かっていくかもしれませんが、いずれにしても常に前を向いて進んで行こうと思っています。

皆さんも諦めることなく、燃え尽きることなく子供さんをサポートしてあげてください。

私たち親子がお役に立てることがあるようでしたら、いつでも連絡ください。
できる限りの協力をさせていただきます。

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